犯人はみんなそう言うんだよ!

よくありがちな推理小説、あるいはドラマの解決シーン(推理の披露)を思い浮かべてみてほしい

探偵が流麗な推理を披露し、おそらくはその場にいる犯人の名を高らかに宣言するところからだ

 

探偵「犯人は、あなたしかいない、犯田さん!!」

犯田「…………いや、実に素晴らしい想像だったよ。推理作家でも目指したらどうだね。」

犯田「しかし、そうだね。探偵の推理に証拠が無いのは推理小説としてはいただけないかな?」

探偵「証拠なら、ある。あんたの登山靴の靴底から出てくるはずだよ……殺人現場にしかない特殊な砂がね!」

刑事「調べさせてもらいますよ」

犯田「ち、ちがう、私は犯人じゃない!!」

刑事「犯人はみんなそう言うんだよ!」

 

証拠がガバガバなのは置いておくとして、まあこんな感じだろうか。

別に推理ものの解決シーンが形式化しすぎていて、そこに登場する定型句がもはや滑稽にすら感じられる、と言うことを批判したいわけではない。

が、刑事が最後に言う「犯人はー」の一文に関しては、それが陳腐だとか言う以前に、明確な違和感を覚えずにはいられない。

 

なるほど確かに、嫌疑を掛けられて素直にはい私がやりましたという犯人は少ないかもしれない。殺人のような重罰待った無しの犯罪であったらなおさら、なんとか言い逃れができないかと粘るのは人情だろう。そういう意味で、犯人はみんなそう言う、というのは感覚的には全く間違っているとは言えないかもしれない。

 

しかし、常識的に考えて、容疑者が真犯人でない場合、冤罪を被っている場合も彼または彼女が容疑を否定するのは明らかだ(自白強要などの問題はここでは考えないこととする)。

 

つまり、犯行の否定の有無と実際に犯人であるかは全く関係無いのに、まるで否定することでより犯人であることの蓋然性が高まっているかのような言い方をしているのが、明らかに理不尽で、おかしい。

 

 

ところで、冒頭の茶番劇に続きがあったとしよう。

 

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犯田さんの登山靴からは案の定特殊な砂が検出され、他の状況証拠と合わせて逮捕、起訴される。犯田さんは一貫して容疑を否認し続けたが、有罪が確定、懲役20年になった。

そして長い月日が過ぎ、とうとう出所した犯田さんと検察のもとに封書と小包が届く。何とそれは、あの殺人事件の真犯人、真犯田さんからの犯行の告白と物的証拠だった!

犯田さんは真犯田さんに陥れられ、探偵もそれを見抜くことが出来なかったのだ……つまり、犯田さんの「犯人じゃない!」という言葉は本物だったのだ。

真犯田さんは数年前から海外に姿をくらませており、発見は相当困難だろうとされている。

 

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物語の中で探偵が犯人を間違えることはまずないが、実際には無辜の者を誤認逮捕、ということもありうる(実際には刑事は「犯人はみんなそう言うんだよ!」などと言わない、という指摘はもっともだが、無視する)。

 

また、犯人が疑われた時点で潔く犯行を認める、ということも少しはあるだろう。

 

こうした場合ーーーつまり、容疑者は「犯行を認めない犯人」「犯行を認める犯人」「犯行を認めない被冤罪者」という3パターンがあるときのことを考える。

このとき、「犯行を認めない」という行動を取ったなら、むしろ「犯人である」確率は下がる、というのは感覚的にも明らかだ。適当に数値を設定して条件付き確率として計算してみればより確信できるだろう。

 

 

再度確認しておくが、冤罪、自白の確率が十分小さいとするなら、犯行を否定する容疑者はだいたい犯人なので、明らかな間違いを言っていると言うわけでは無い……が、僅かではあるが、やはり犯行を否定したことによって犯人である確率は下がっているのだ。

ここは一つ、「いうてもおたくが犯人なんやろ?」くらいのほうが適切ではないだろうか。

 

 

確率で語るのは適切じゃないとか難しいことは言われても困ります。文系なので(反知性)

 

Long Long Love Song

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枝准×熊木杏里と銘打って「Long Long Love Song」というアルバムが発売されたのでレビューします

端的に言ってしまうととても良かったです
俺たちの麻枝准は生きていたぞと声を大にして言いたい
麻枝准原理主義者なので、Charlotteの出来であるとか、最近まあ色々と思うところがあったんですが、このアルバムは自信を持って良いと言える
売り上げがふるわないと病んじゃうのでどうか買ってくれ

 

以下誰も読まない気がする全曲レビュー

 

1.僕らだけの星

明るい曲調なのに寂寥感が感じられて熊木杏里さんすげえってなる曲

「過ぎ去った、諦めたもの」みたいなアルバムのテーマも示されて、オープニングとしての初聴時のワクワク感もすごかった

 

2. Bus Stop

ベストトラック!

曲も詞も全盛期麻枝感があり、熊木さんの歌声も聞いていて心地よい

ラスサビの歌詞のノスタルジックなワードチョイスが力強くなる曲調と合わさってよくわからないのに感動してしまう(すごく褒めています)

 

3.小説家とパイロットの物語

「終わりの惑星から〜」的なストーリー風歌詞だけど、説明くささが抜けて良い

まあまあ寂しい話なのにほっこり出来る

 

4.Rain Dance

アップテンポで少女のウジウジした心理描写をするというミスマッチが面白い

熊木さんの声質と相まって透明感がすごくて、サビを脳内リピートするのが楽しい

 

5.約束の唄

歌詞が「あ〜麻枝節だ〜」って感じ。抽象的でなんか壮大。楡の木好きやな。

曲も歌も荘厳で切迫した感じで想像に浸るのに最高。

 

6.きみだけがいてくれた街

悲壮感溢れる雰囲気からのビターすきる歌詞。絶対にステレオタイプオタクに受けないだろwという内容ではあるが、8分近くもあるのに引き込まれ続けるクオリティーがあり、賛否両論はありそうだがアルバムの顔の曲、という感じ。

 

7.tale of the tree

ストーリーが一曲の中で綺麗にまとまっていて完成度が高かった

高音が聴きやすくてロングトーンが心地良い、もっと伸ばして〜ってなる

 

8.光の行方

アニソンっぽい、キャッチーで力強いサビが印象深い

熊木さんの透明感のある声のままなのにパワフルにも感じられてすごい(こなみかん)という感想

 

9.銀色世界

寂寥感がすごい!寒々しさ、諦念、寂しさみたいな感覚が歌詞に耳を傾けなくても感じられる。

アウトロがkanonをちょっと思い出させてよい

 

10.End of the World

Rewriteアニメのやつ。アニメOPってこともあってキャッチーなメロディー。

Rewriteのシナリオ前提みたいなところはある

 

11.汐のための子守歌

思い出補正が強過ぎて、願いが叶う場所にボーカルが付いているだけで泣いてしまうのでまともにレビュー出来ない

CLANNADを多感な時期にプレイした人には聴いて欲しい

 

12.supernova

トランスで変拍子で聴いてて面白い

幻想的な曲と声がめっちゃ合ってる

制作日誌にも書かれてたけど、最後のロングトーンの「よーーー」が鳥肌モノ

 

13.Love Songの作り方

アルバムを通じてのテーマが一気に昇華されて、一転して純度100パーセントの幸せな曲

冒頭の「ふたりには夕凪を」の時点で名曲だと確信した

エンディングにふさわしいというか、エンディングとして聴いてほしい

 

 

 

 

 

 

Don't fry leg

「揚げ足取り」って言葉がありますよね。

物事の些末な点、言葉尻や勘違いをとらえて非難する、というような意味で使われています。おおよそ殆どの場合非生産的とされ、否定的なニュアンスで使われているのではないかと思います。

 

ところでこの言葉、相撲で相手がうかつに上げた(揚げた)足を取って倒す事が語源になっているらしいです。相手の隙を見逃さずに咎めることから失言を非難することに転じたようですが……これってすごく違和感がありませんか?

 

勝ち負けを競う相撲で相手が隙を見せたなら咎めるのが当然というか、足を揚げたから取るのは相撲のルールにもなんら反していませんし、アンフェアというわけでもありません。じゃっかん狡猾な印象を受けないこともないですが(実際そうだからこんな言葉が出来たのでしょう)、あくまで相撲のルール内の正当な勝ち方、その手法といえます。

であるならば、転じた慣用句としての「揚げ足取り」も、「相手の発言や発表の矛盾、瑕疵を指摘して非難する」という意味にはなりこそすれ、そこに「些末な点」だとか、「言葉尻」というニュアンスは入るはずがないでしょう。どう考えても足を揚げることは些末なことではないですし、それを取ることは非生産的でもないですよね。勝てるんだから。

そしてこのより"原義的"な意味での「揚げ足取り」は、決して悪いことではない、むしろ生産的にもなり得る行為と言えるのではないでしょうか。

 

「言葉の意味なんて約束事でしかないんだから、語源と多少ズレるのは当たり前だ」という反論、いえ、「揚げ足取り」は安易に思い付きますが、どうしてそんなズレが発生したのでしょうか。

 

それはそうと、実際われわれがこの言葉を目にするとき(多くは「揚げ足を取るな!」というかたちで)それらが本当には「些末な間違い」を指していないこともしばしばありますね。

もしくは、「些末な間違い」や「言葉尻の曖昧さ」すら許されない厳密な議論や発表においてもこの言葉が使われることがあるかも知れません。揚げ足を取られる余地を残してはいけない場には、もはや揚げ足取りという概念は存在しないのにもかかわらず、です。そしてやはりというか、それも単なる揚げ足取りではないことは多そうです。

つまり、自分の問題点に対する指摘を、些末でどうでもいいものだとレッテル貼りするために使われることがある、ということです。

 

このような用法を目的として、「揚げ足」の語義の語源とのやや不可解なズレーー「些末な」というニュアンスの追加が発生したというのは飛躍しすぎた想像でしょうか。

 

論理の矛盾はしばしば見過ごしてしまうもの(少なくとも私のような凡人は)ですが、それを他人に批判され、素直に認めるのも簡単ではないでしょう。それならば、相手の批判がそもそもナンセンスだということにしよう、何か良さそうな言葉は無いだろうか…… 

ひょっとしたらそんな思いから語義が付け加えられたのかもしれませんね。

 

どうでもいいですが、僕はこの言葉の意味を語源から知ったので2,3年前までは「些末な」というニュアンスがあるとは知らず、「揚げ足取ったら何があかんのやアホなんか?」と思っていました。「正しい」用法に対しては「いやそれは揚げ足じゃなくてどうでもいい間違いやん……」と思っていました。

「揚げ足とか取られる方が100パーセント悪いやろ」などとわめいた時に周囲から一切の賛同が得られなかった時に齟齬があったことに気付くべきでした。

しかしこういう誤認に気付く瞬間はなかなか得難い感覚というかアハ体験というかそういった類のものがあるので良いですね。周囲とのディスコミュニケーションを感じたら辞書を手にとってみるのはいかがでしょうか。

LGBTとペドって何が違うん?

最近LGBTの権利保護についての話をよく聞くようになった気がします。テレビも新聞もネットのニュースも能動的には見ないので俗世間のことには非常に疎いのですが、そんな僕でもなんとなく記憶に残るくらいなのでいろいろ進展しているのでしょう。それに関する物議もよく目にします。

 

この認識のざっくりさ加減からもわかると思いますが、正直この問題にあまり関心はありません。僕自身LでもGでもBでもTでもないし(Lは自明)、身近にそれらの人がいたこともないので。

しかし、差別が取り除かれて多様性が認められる方向に社会が動いているというのなら、まあいいことなんじゃないかと思います。そこを相対化して考えるのはとりあえずやめておきます。

 

ところで、「LGBTに権利を!」と「ペドフィリアに権利を!」とでは、社会からの反応がずいぶん違うものになるとは思いませんか?後者は場合によっては性犯罪者扱いを免れないのではないでしょうか。

この二つ、本質的にどんな差があるんでしょうね?

もちろん、ペドフィリアの方が、実在する人間を対象としたとき、犯罪性が遥かに高い(欲望の客体の性質上、真の意味での合意はありえないため)ことは間違いないでしょう。そういった意味で法規制や社会からの抑圧が厳しくなるのは当然ではあります。また、公的にペドフィリアに一定の権利を認めるということそのものが、小児やその保護者への抑圧、不安になりかねないという問題もあるかもしれません。

しかし、自らの性的倒錯と向き合い、ゾーニングされた中で生きようとする"善良な"ペドフィリアを罵倒することは許されることでしょうか?

今、街中で同性愛を揶揄したならば、きっと白い目で見られつつ「あいつはなんて未熟な思想を持っているんだ」と嘲笑さえされるかもしれません。もっともそんな人滅多にいないですよね。

しかし、「ロリコンってほんとにキモい」(ロリコンペドフィリアの違いはおいておくとして)と話している人がいても大して気にならないのではないかと思います。賛成する人の方が多いかもしれません。しかも、こちらはまだ遭遇する機会が多そうです。少なくとも想像しやすいでしょう。

このとき、二つの起こりやすさの差は「ロリコンのほうがより気持ち悪い(し、そう言っても咎める人がいない)」というだけですよね。

 

ペドフィリアの性質上、社会福祉的にその権利は認めることも主張することすら難しいかもしれませんが、現状は「侵害され過ぎ」ではないかと感じます。大多数の人間が強い生理的嫌悪感を覚えるから、弱者しか相手にできない卑怯者に違いないから、そんな感情的な理由で、その人格まで否定する正義が認められてしまうのは、まさに未熟な思想ゆえでは無いでしょうか。

 

 

ペドがペドの権利を主張するのは抑圧になり得るし、他者が代弁しようとしてもペドのレッテル貼りをされるという現状がどう考えても地獄なんだね。

ペドに限らず少数倒錯者全般に言えることかもしれんが。

憎まれっ子世にはばかる

人に憎まれるような乱暴ものほど、社会での立場が大きくなることがある、という意味の言葉だ。「中学でおれを虐めていた奴らが今じゃみんな大企業勤めだよ、-だなあ!」のように使われる事が多い。

 

ところで、私が掲題の語を始めて知ったとき(はっきりとは覚えていないが多分小学校低学年)ずいぶん感心した記憶がある。(当時に分析的に考えていたかは別として)この語の表す内容が「どうとく」の時間で習うことの明確な否定であり、それなのに当たり前のように「どうとく」の時間でさえ教えられていたからだ。

 

「世にはばかる」、つまり世間、社会で幅を利かせられる地位に立つ、というのは明らかに得で、良いことだろう。むろん、慎ましやかに生きている方が性に合うという人もいるだろうが少なくとも幅を利かす、という選択肢があるに越したことはない。

そして、「憎まれっ子」というのは横暴を働く悪者で、定義に反道徳性を含んでいる。

つまり、「憎まれっ子」という明らかに道徳に反する存在である方が得をする、と言っているわけだ。

そんなトートロジーを冗長に解説するな、と感じたかもしれないが、ここをはっきりさせておいてほしい。

 

さて、それでは十数年前の「どうとく」の時間に戻るとしよう。幼かった私はこの道徳へのアンチテーゼとも言える語を聞いてこう思った。「えっ、じゃあ人に憎まれることをした方がいいのか!?(いや、そんなわけがない)」と。

 

このさい現象から勝手に因果関係を読み取っているのには目を瞑ってほしい。とにかく、今まで絶対的に正しいと教えられた道徳を否定する概念があらわれた。それに対する「道徳的」な反証は、きっとなされるにちがいない、と期待したのだ。

道徳の絶対性は何度も何度も説かれてきたのだから、ときに「いくら勉強ができても心がきれいでないと」というような言葉と共に(べつにわたしが「勉強ができるから何をしてもいいだろう」と言ったわけでもないのに)。テストの点数という誰が見ても明らかに上下が判別できるものより、あいまいな「心のきれいさ」の方が大事だと教わった。理由ははっきりとは言わないが、とにかくそちらの方が立派なのだと。

 

幼い私は幼いなりに先生が話し始める前に「先回り」して反証を考えた。これがまぎれもない真実であるとすると、そんなものを「どうとく」の時間で教えるわけがない。つまり、本当はこんなことはないんだよ、という解説がなされるのか?あるいは、「憎まれっ子は世にはばかったけども、やっぱり最後は正直者が勝ったよ」というような「アリとキリギリス」的な補足がなされるのではないか?

 

 

しかし、現実にはそのどちらも起きなかった。

 

先生は、この語を否定しなかった。あまつさえ、身近な例をあげて補強しさえした。

 

その上で「正しい人が報われない世の中は悲しいですね。」などとのたまったのだ。生徒たちはそれに頷き、義憤を露わにしていた者もいた。

 

私は呆然とした、道徳に反した方が得ならばなぜ道徳に従うのか、それならば道徳の正しさは道徳にしか由来しないのではないか、自分が「世にはばかれ」なかったから都合の良い「道徳」という、絶対的な正当性などかけらもない規範にすがって成功者を「憎まれっ子」などと人格攻撃しているだけではないのか———

 

当然こんな風に言語化はしていなかったが、このような疑問を抱き、拙い「なんで?」の連続で先生に問い質した。今思えば馬鹿らしいことをしたと思うが、当然しっかりとした答えなど帰って来ずに、得られたのは「不道徳」の烙印といつもの「いくら勉強ができても心が〜」という繰り言だけだった。

しかし、私はそれによって道徳に何の絶対的価値もない事を知り、優越感を感じて、時折道徳に反発しては不道徳と呼ばれ、それをむしろ勲章のように感じていた。

本当に賢い人間は最初からとっくにそんなことを知っていて、ただ得だから「道徳」を演じている、ということに気付いたときは相当に恥ずかしかった記憶がある。

 

 

さて、冒頭の使用例もそうだが、やはり現実にこの語が使われるとき、単なる現象の発見というよりは「憎まれっ子」への呪詛、義憤を大いに含むように思われる。

自分の嫌いな人間が社会的地位を獲得するのが気に入らないのはわかるが、そんなものはただのひがみにすぎない。

「力」では勝てない、でも気に入らない——そんな「弱者」にとって「道徳」というのは実に都合がいいものだ。なにせ従うのに何の能力も必要としない。それが相対的なものであることは、もはや彼らに認識されることはない。

「強者」を自分達の恣意的な規範を後ろ盾にして、あいつは「道徳的」ではないくせに!などと叫ぶことが、いかにより原理的な意味で「不道徳」かに気付くことは出来ないのだ。

 

たとえ「弱者」に甘んじることになっても、そこまで堕ちたくはないものだ。

 

 

余談だが、「憎まれっ子が世にはばかる」というよりも「世にはばかると憎まれる」というような因果の逆転が起きることもしばしばあり、衆愚のルサンチマンは深いことがここからもよくわかる。

 

誤謬って言葉を使いたかっただけ

このツイートを見たことがあるだろうか

 

Testosterone on Twitter: "悪口陰口嫌がらせ、全部暇人のやる事だから気にすんな。プライベートも仕事も絶好調で超ハッピーな人がわざわざ他人の事チェックしてケチつけねーだろ?自分がうまくいってなくて不幸で暇な奴が悪口陰口嫌がらせなんてするんだよ。「おう暇人!お疲れ!」って思っときゃいい。相手しても損するだけだ。"

 

ツイッターで拡散されているものの馬鹿馬鹿しさをいちいち指摘する方がむしろ知的な態度から遠いことだろう。しかし、このくだらない啓発まがいのツイートを目にすることがあまりに多く、さすがに辟易させられたので、腹いせとして批判しようと思う。

 

まずはツイートを上から読んでいこう。

 

>悪口陰口嫌がらせ、全部暇人のやる事だから気にすんな。

 

いきなり疑問の余地だらけの主張である。悪口陰口嫌がらせ(今後便宜上これらを行うことをdisると呼ぶ)は「暇人」によってしか為されないそうだが、これは一般的な「暇人」という語の定義とは明らかに一致していないだろう。別に暇だから人をdisるわけではないし、暇でない時に人をdisることがあることは自明である。実際、私は現在暇ではないが、くだらないツイートをdisるためにわざわざブログを書いているのだ。

さらに、この一文からは「暇人のやる事は気にしなくても良い」ということが前提になっていると読み取れるが、これが真ではないことも(一般的「暇人」の定義に基づいて考えれば)明らかだ。disの主体者が多忙か否かにdisの正当性、有意性が依存するわけがなかろう。

 

と、頭からおかしいことを言っているのだが、我慢して読み進めよう。

 

>プライベートも仕事も絶好調で超ハッピーな人がわざわざ他人の事チェックしてケチつけねーだろ?自分がうまくいってなくて不幸で暇な奴が悪口陰口嫌がらせなんてするんだよ。

 

ここまでよめば主張の大意は読み取れる。要するに、「超ハッピーならば人をdisらない」→「disるのは不幸で暇な奴(おそらくこれが頭の文の「暇人」の定義なのだろう)」→「disは聞くべきではない」という論理展開だろう。さらに、「不幸で暇な奴のdisは聞くべきではない」というのも前提になっている。

 

まず、「不幸で暇な奴のdisは聞くべきではない」という前提だが、明文化はされていないが、これは「不幸で暇な奴のdisは彼らが心に余裕が無く、単に妬み嫉みをぶつけただけのくだらないものだから気にすることはない。」ということだろう。これのうち、「心に余裕が無く、単に妬み嫉みをぶつけただけのくだらないdisを気にするべきでは無い」という部分は正しい。ルサンチマンからなる見苦しいdisをいちいち真に受けるのはまるで馬鹿らしいことだ。

 

しかし、この部分の正しさ、受け入れやすさを利用して恣意的に解釈を散大させていることが問題なのだ。

 

大元となっている「超ハッピーならば人をdisらない」という主張とその対偶と思しき「人をdisるのは不幸で暇な奴」という主張について考えよう。

おそらくこれら主張は「人をdisるのは心に余裕が無いからである」という前提に基づいている。おしなべてdisという行為は心の余裕の無さ、自分の自信の無さからくるものであり、それら劣等感に類する感情を持たない「超ハッピー」な人がdisなどするわけない、ということだ。

しかし——これら主張を信じ切って偽りの安寧を得ている人々にとっては受け入れ難いことかもしれないが——すべてのdisが劣等感に起因するなどということはありえない。そのことを我々は考えるまでもなく知っているはずだ。ジャイアンはなぜのび太をいじめるのか?スネ夫はなぜのび太の悪口を言うのか?まさかのび太に劣等感を感じているからだとは言うまい。心の不安を形に変えているとは言うまい。そのような要素が一切無いとは言わないが、最大の動機は「ただ楽しい」からである。

なぜ阪大生は関関同立をdisるのか?

「自らの優位性を確認して安心したいからだ」「学歴しか明確な自信のあるものがないからそれだけは誇示したいのだ」

なるほど妥当な指摘である。もっとも、核心的ではない。やはり最大の動機は「ただ楽しいから」なのだ。

社会規範としての道徳のある世界に生きている以上、そう思うことに禁忌感を抱いたり、そう言い切っている人(ex:私)に嫌悪感を抱くのは自然である。しかし、心の底から「disは楽しい」ということを否定できるだろうか?

知的に、あるいは容姿でもなんでもよい、劣っているもの、程度の低いものを蔑むのは面白いことなのである。

 

よって、「超ハッピーならば人をdisらない」などというのは全くの誤謬である。

 

>「おう暇人!お疲れ!」って思っときゃいい。相手しても損するだけだ。

 

「心の余裕の無さから人をdisることがある」

という命題から「人をdisるのは心に余裕が無いからである」が導かれないことは高1の集合論レベルであり、多少聡明であれば小学校低学年生でも理解できることだろう。

そんな少し考えれば誰でも分かることに向き合おうともせず、自分をdisるものはすべて「心の余裕の無い不幸で暇な奴」であると決めつけ見下すその姿勢は、ただ楽しいから人をdisっており、それを自覚的かどうかの差はあっても理解している知性ある人々よりもよほど冷酷で、醜悪である。

くだらない道徳では「正しい」disなどありはしないだろうが、disによって間違いに気付かされたり、知的にdisを楽しむことで有益にdisを受け取ることは可能だろう。そんなことにも思い当たらず相手しても損するだけなどと断ずるような白痴は、一生自分に優しくしてくれる人の話だけ聞いて、可能性を見て見ぬ振りをし、私はこれでいい、などと知性のかけらもないことを自分に言い聞かせながら死んで行くといい。

 

クリスマスを素敵な恋人と過ごす5つの方法

そんな都合のいいものはありません。仮にそんな方法があったとして、その提示された方法をぼくは実行出来る気がしませんし、実行できるような人には既に素敵な恋人がいるんじゃないかと思います。

人は孤独たるべくして孤独なんでしょう。

見方を変えれば孤独を甘受出来る精神的余裕があるということになりませんか?なりませんか。そういう風に考えないとまあまあつらいのでぼくの中ではそういうことにしておきます。

 

なんとなくこれを書こうかな、みたいなことは色々あったんですがなかなか記事に起こすのがしんどくてブログの更新が長らく途絶えてしまいました。

これからはもう少し短めのを高頻度で書いていきたいと思います。

 

大学三回生も終盤で、いよいよ卒業後のことを考えないといけない時期ですね(そもそも卒業できるのかということは置いておいて)。

就活とか意識高い系がやることだろwまだえーわwと思っていたのですがなんか周りを見ると本格的にやばそう(具体的に何がどうやばいのかはわかっていない)で焦燥感が募るのですが、焦るばかりで何も出来ないです。過去の自分が公認会計士の勉強をしなかったことを責めたりはしてます。過去の自分も責められる謂れが無さすぎてビックリだと思います。

周りの人達が、意識高い系でもない人たちもインターンや企業説明会みたいな奴に行き出したり、公認会計士の一次試験通ったり、着々と将来に向けて歩みを進めている一方、ぼくは引きこもってネット麻雀をして段位が上がったのを喜んでいる、冷静になってみるとすごくまずい状況なんじゃないかと。

どう考えても何かしら行動を起こさないといけないことはわかってるんですが、心のどこかで「でもまあ結局なんとかなるんでしょ?」みたいに考えてしまってすぐに動き出そう、という気になれません。

今までの人生ででもまあ結局なんとかならなかった経験がないので、どうしても甘く見てしまうんですよね。

もっとも、そろそろ手痛いツケを払わされるような予感はすごくします。誰か助けてくれと言っても誰も助けてくれないことはよくわかってるんですが、言わせてください。

誰か助けてくれ。