憎まれっ子世にはばかる
人に憎まれるような乱暴ものほど、社会での立場が大きくなることがある、という意味の言葉だ。「中学でおれを虐めていた奴らが今じゃみんな大企業勤めだよ、-だなあ!」のように使われる事が多い。
ところで、私が掲題の語を始めて知ったとき(はっきりとは覚えていないが多分小学校低学年)ずいぶん感心した記憶がある。(当時に分析的に考えていたかは別として)この語の表す内容が「どうとく」の時間で習うことの明確な否定であり、それなのに当たり前のように「どうとく」の時間でさえ教えられていたからだ。
「世にはばかる」、つまり世間、社会で幅を利かせられる地位に立つ、というのは明らかに得で、良いことだろう。むろん、慎ましやかに生きている方が性に合うという人もいるだろうが少なくとも幅を利かす、という選択肢があるに越したことはない。
そして、「憎まれっ子」というのは横暴を働く悪者で、定義に反道徳性を含んでいる。
つまり、「憎まれっ子」という明らかに道徳に反する存在である方が得をする、と言っているわけだ。
そんなトートロジーを冗長に解説するな、と感じたかもしれないが、ここをはっきりさせておいてほしい。
さて、それでは十数年前の「どうとく」の時間に戻るとしよう。幼かった私はこの道徳へのアンチテーゼとも言える語を聞いてこう思った。「えっ、じゃあ人に憎まれることをした方がいいのか!?(いや、そんなわけがない)」と。
このさい現象から勝手に因果関係を読み取っているのには目を瞑ってほしい。とにかく、今まで絶対的に正しいと教えられた道徳を否定する概念があらわれた。それに対する「道徳的」な反証は、きっとなされるにちがいない、と期待したのだ。
道徳の絶対性は何度も何度も説かれてきたのだから、ときに「いくら勉強ができても心がきれいでないと」というような言葉と共に(べつにわたしが「勉強ができるから何をしてもいいだろう」と言ったわけでもないのに)。テストの点数という誰が見ても明らかに上下が判別できるものより、あいまいな「心のきれいさ」の方が大事だと教わった。理由ははっきりとは言わないが、とにかくそちらの方が立派なのだと。
幼い私は幼いなりに先生が話し始める前に「先回り」して反証を考えた。これがまぎれもない真実であるとすると、そんなものを「どうとく」の時間で教えるわけがない。つまり、本当はこんなことはないんだよ、という解説がなされるのか?あるいは、「憎まれっ子は世にはばかったけども、やっぱり最後は正直者が勝ったよ」というような「アリとキリギリス」的な補足がなされるのではないか?
しかし、現実にはそのどちらも起きなかった。
先生は、この語を否定しなかった。あまつさえ、身近な例をあげて補強しさえした。
その上で「正しい人が報われない世の中は悲しいですね。」などとのたまったのだ。生徒たちはそれに頷き、義憤を露わにしていた者もいた。
私は呆然とした、道徳に反した方が得ならばなぜ道徳に従うのか、それならば道徳の正しさは道徳にしか由来しないのではないか、自分が「世にはばかれ」なかったから都合の良い「道徳」という、絶対的な正当性などかけらもない規範にすがって成功者を「憎まれっ子」などと人格攻撃しているだけではないのか———
当然こんな風に言語化はしていなかったが、このような疑問を抱き、拙い「なんで?」の連続で先生に問い質した。今思えば馬鹿らしいことをしたと思うが、当然しっかりとした答えなど帰って来ずに、得られたのは「不道徳」の烙印といつもの「いくら勉強ができても心が〜」という繰り言だけだった。
しかし、私はそれによって道徳に何の絶対的価値もない事を知り、優越感を感じて、時折道徳に反発しては不道徳と呼ばれ、それをむしろ勲章のように感じていた。
本当に賢い人間は最初からとっくにそんなことを知っていて、ただ得だから「道徳」を演じている、ということに気付いたときは相当に恥ずかしかった記憶がある。
さて、冒頭の使用例もそうだが、やはり現実にこの語が使われるとき、単なる現象の発見というよりは「憎まれっ子」への呪詛、義憤を大いに含むように思われる。
自分の嫌いな人間が社会的地位を獲得するのが気に入らないのはわかるが、そんなものはただのひがみにすぎない。
「力」では勝てない、でも気に入らない——そんな「弱者」にとって「道徳」というのは実に都合がいいものだ。なにせ従うのに何の能力も必要としない。それが相対的なものであることは、もはや彼らに認識されることはない。
「強者」を自分達の恣意的な規範を後ろ盾にして、あいつは「道徳的」ではないくせに!などと叫ぶことが、いかにより原理的な意味で「不道徳」かに気付くことは出来ないのだ。
たとえ「弱者」に甘んじることになっても、そこまで堕ちたくはないものだ。
余談だが、「憎まれっ子が世にはばかる」というよりも「世にはばかると憎まれる」というような因果の逆転が起きることもしばしばあり、衆愚のルサンチマンは深いことがここからもよくわかる。