LGBTとペドって何が違うん?

最近LGBTの権利保護についての話をよく聞くようになった気がします。テレビも新聞もネットのニュースも能動的には見ないので俗世間のことには非常に疎いのですが、そんな僕でもなんとなく記憶に残るくらいなのでいろいろ進展しているのでしょう。それに関する物議もよく目にします。

 

この認識のざっくりさ加減からもわかると思いますが、正直この問題にあまり関心はありません。僕自身LでもGでもBでもTでもないし(Lは自明)、身近にそれらの人がいたこともないので。

しかし、差別が取り除かれて多様性が認められる方向に社会が動いているというのなら、まあいいことなんじゃないかと思います。そこを相対化して考えるのはとりあえずやめておきます。

 

ところで、「LGBTに権利を!」と「ペドフィリアに権利を!」とでは、社会からの反応がずいぶん違うものになるとは思いませんか?後者は場合によっては性犯罪者扱いを免れないのではないでしょうか。

この二つ、本質的にどんな差があるんでしょうね?

もちろん、ペドフィリアの方が、実在する人間を対象としたとき、犯罪性が遥かに高い(欲望の客体の性質上、真の意味での合意はありえないため)ことは間違いないでしょう。そういった意味で法規制や社会からの抑圧が厳しくなるのは当然ではあります。また、公的にペドフィリアに一定の権利を認めるということそのものが、小児やその保護者への抑圧、不安になりかねないという問題もあるかもしれません。

しかし、自らの性的倒錯と向き合い、ゾーニングされた中で生きようとする"善良な"ペドフィリアを罵倒することは許されることでしょうか?

今、街中で同性愛を揶揄したならば、きっと白い目で見られつつ「あいつはなんて未熟な思想を持っているんだ」と嘲笑さえされるかもしれません。もっともそんな人滅多にいないですよね。

しかし、「ロリコンってほんとにキモい」(ロリコンペドフィリアの違いはおいておくとして)と話している人がいても大して気にならないのではないかと思います。賛成する人の方が多いかもしれません。しかも、こちらはまだ遭遇する機会が多そうです。少なくとも想像しやすいでしょう。

このとき、二つの起こりやすさの差は「ロリコンのほうがより気持ち悪い(し、そう言っても咎める人がいない)」というだけですよね。

 

ペドフィリアの性質上、社会福祉的にその権利は認めることも主張することすら難しいかもしれませんが、現状は「侵害され過ぎ」ではないかと感じます。大多数の人間が強い生理的嫌悪感を覚えるから、弱者しか相手にできない卑怯者に違いないから、そんな感情的な理由で、その人格まで否定する正義が認められてしまうのは、まさに未熟な思想ゆえでは無いでしょうか。

 

 

ペドがペドの権利を主張するのは抑圧になり得るし、他者が代弁しようとしてもペドのレッテル貼りをされるという現状がどう考えても地獄なんだね。

ペドに限らず少数倒錯者全般に言えることかもしれんが。