犯人はみんなそう言うんだよ!
よくありがちな推理小説、あるいはドラマの解決シーン(推理の披露)を思い浮かべてみてほしい
探偵が流麗な推理を披露し、おそらくはその場にいる犯人の名を高らかに宣言するところからだ
探偵「犯人は、あなたしかいない、犯田さん!!」
犯田「…………いや、実に素晴らしい想像だったよ。推理作家でも目指したらどうだね。」
犯田「しかし、そうだね。探偵の推理に証拠が無いのは推理小説としてはいただけないかな?」
探偵「証拠なら、ある。あんたの登山靴の靴底から出てくるはずだよ……殺人現場にしかない特殊な砂がね!」
刑事「調べさせてもらいますよ」
犯田「ち、ちがう、私は犯人じゃない!!」
刑事「犯人はみんなそう言うんだよ!」
証拠がガバガバなのは置いておくとして、まあこんな感じだろうか。
別に推理ものの解決シーンが形式化しすぎていて、そこに登場する定型句がもはや滑稽にすら感じられる、と言うことを批判したいわけではない。
が、刑事が最後に言う「犯人はー」の一文に関しては、それが陳腐だとか言う以前に、明確な違和感を覚えずにはいられない。
なるほど確かに、嫌疑を掛けられて素直にはい私がやりましたという犯人は少ないかもしれない。殺人のような重罰待った無しの犯罪であったらなおさら、なんとか言い逃れができないかと粘るのは人情だろう。そういう意味で、犯人はみんなそう言う、というのは感覚的には全く間違っているとは言えないかもしれない。
しかし、常識的に考えて、容疑者が真犯人でない場合、冤罪を被っている場合も彼または彼女が容疑を否定するのは明らかだ(自白強要などの問題はここでは考えないこととする)。
つまり、犯行の否定の有無と実際に犯人であるかは全く関係無いのに、まるで否定することでより犯人であることの蓋然性が高まっているかのような言い方をしているのが、明らかに理不尽で、おかしい。
ところで、冒頭の茶番劇に続きがあったとしよう。
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犯田さんの登山靴からは案の定特殊な砂が検出され、他の状況証拠と合わせて逮捕、起訴される。犯田さんは一貫して容疑を否認し続けたが、有罪が確定、懲役20年になった。
そして長い月日が過ぎ、とうとう出所した犯田さんと検察のもとに封書と小包が届く。何とそれは、あの殺人事件の真犯人、真犯田さんからの犯行の告白と物的証拠だった!
犯田さんは真犯田さんに陥れられ、探偵もそれを見抜くことが出来なかったのだ……つまり、犯田さんの「犯人じゃない!」という言葉は本物だったのだ。
真犯田さんは数年前から海外に姿をくらませており、発見は相当困難だろうとされている。
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物語の中で探偵が犯人を間違えることはまずないが、実際には無辜の者を誤認逮捕、ということもありうる(実際には刑事は「犯人はみんなそう言うんだよ!」などと言わない、という指摘はもっともだが、無視する)。
また、犯人が疑われた時点で潔く犯行を認める、ということも少しはあるだろう。
こうした場合ーーーつまり、容疑者は「犯行を認めない犯人」「犯行を認める犯人」「犯行を認めない被冤罪者」という3パターンがあるときのことを考える。
このとき、「犯行を認めない」という行動を取ったなら、むしろ「犯人である」確率は下がる、というのは感覚的にも明らかだ。適当に数値を設定して条件付き確率として計算してみればより確信できるだろう。
再度確認しておくが、冤罪、自白の確率が十分小さいとするなら、犯行を否定する容疑者はだいたい犯人なので、明らかな間違いを言っていると言うわけでは無い……が、僅かではあるが、やはり犯行を否定したことによって犯人である確率は下がっているのだ。
ここは一つ、「いうてもおたくが犯人なんやろ?」くらいのほうが適切ではないだろうか。
確率で語るのは適切じゃないとか難しいことは言われても困ります。文系なので(反知性)